2015年10月04日

デモと主張と対話

この間、日本の制度をめぐる動きの中で若者のデモが取り上げられることが増えた。
それを素晴らしい!と評価する人がたくさんいる。
逆にばかじゃないの?と揶揄する人もたくさんいる。

海外のメディアでそれなりに評価をしている。
しかし、面白いことに、現実をみろばかちんと評価する人もいる。

共通していることは、若者の政治に対する動きに対して社会が関心をもっている、ということである。
評価が割れているのは、評価する人の価値観によってわけられている。

お互い違う価値観の中で動いている。しかし、その中で進んでいくのが社会であり、国を維持していく政治である。
色々な人が主張し、避難し、誰かに対して意思を訴えている。
しかし、デモも、2ちゃんねるも、運動かも、メディアも、一体誰に対して意見を言っているのか。


建築家であり哲学者であるクリストファー・アレクサンダーはこのように言っている。
人間のシステムを含む生命システムは、個人、家族、複雑な組織、街、そして社会といったあらゆる規模のレベルを含む全体性で構築されているのです。そして彼らは、生命を高める進歩は、中央の権威が発令する大計画や法令によってではなく、小さな協働行為から強創されるのであると
と。

つまり、法案が通るとか通らないとか(それも重要だが)、本当に決めていくのは、隣のおっちゃん、おばちゃん、友だち、知り合いといかに「対話」をして、社会を作っていくかを共に考えていくか、である。対話ってのが味噌。デモでも、批判でも、国会ですらも「対話」はない。正直ないと私は感じえいる。
日本の社会のシステムが壊れているというならば、この対話を作り出すことが少ないということではないだろうか。主張をことなる人たちを敵対的スタンスで待ち構えるのではなく、その先、どうしたら重要なことについて「一緒に考えていけるか」。
それをもちろん、時間がかかること。しかし、時間をかけてもいいところだと思う。なぜなら、そのことこが、国や地域やグループを1つの目標や方向性に向かって進むべきところに向かわせるという、社会の姿勢ができるから。
それが、日本を超えて各世界の基本となれば、武力を行使して相手を制圧するという行為は、原理的にはなくなる。

デモも批判も、まず対話を。  

Posted by 峰政 裕一郎 at 21:00Comments(0)おもったこと