2016年09月16日

逃げ場なし。大きな存在との長期戦。

とてつもない大きな存在と向かい合う。
こちらが今まで身につけてきた知識や技術はほんど役にたたない。
それどころか、先方にはこちらが使う言語すら全く通じない。
必至に考えた私のプレゼンを大きな声で消し去しさる。
ダメだったか・・・

そう悲観する暇を与える間もなく、難題を投げかけてくる。
容赦のない訴え。
こちらも手を打つ。
先方の特性を調べ、調査し、更なる知識をみにつけて立ち向かう。
しかし、一瞬で無碍にされることも少なくない。

時間を選ばない交渉。24時間、相手が望む時があれば即座に応じなければならない。
さもなければ更に大きな最悪の自体を招く。
自分の時間は削られる。

自暴自棄な暴力的な解決方法は、先方の背後にそびえる巨大な力によってこちらが抹殺されることは目に見えている。
逃げたい時もある。
逃げたい。
しかし、逃げることは許されていない。

だから、こちらはチームを組んでその存在と向き合う。
それは、こちらの負担を減らすこともあるが、先方もそれを望んでいることもある。

経費もばかにならない。
先方の機嫌を伺い、必要な物品を購入しなければならない。
それが、長期的スパンで考えると最低限の投資になる。

この向き合いがいつ終わるのか。
それはわからない。
だれも答えることができないだろう。

しかし、こういった努力は少しずつ、本当に少しずつだが効果を出してくる。
焦ってはいけない。
じっくり向き合うことが必要。
そうすれば、共通言語がみつかり、話し合いも可能になり、最終的にはこちらを助けてくれる存在にもなる。
なにより、その存在が元気よく、育ってくれればそれだけで嬉しい。

以上、子育ての話でした。
  


Posted by 峰政 裕一郎 at 21:00Comments(0)おもったこと

2016年09月14日

会議をぶっこわすこんな人達。え?自分でした。コレ気づけば、会議の質が上がる。

3年前ぐらいからか?
ファシリテーションというのを勉強している。
Σ(´・д・`;)ナニソレ?
簡単に言えば、会議とかミーティングとかイベント、そんなときに人の意見や活動をよりお互いに交わせるようにしたり、共有できたりと活動を活性化したり容易にするようにサポートする技術。
会議に出ていたら、すげー論点をまとめるのがうまかったり、その人がいると会議に元気がでてくる。そんな人。世の中にはナチュナルでそれができる天才もいる。私は凡人だから、学ばなければ出来ない。
会議の発言の中身というより、その枠組や進め方を考える。
ファシリテーションをする人をファシリテーターと呼んだりする。

なんで勉強を始めたかというと、「意見の出ない会議」や「ながーーーーーい会議」にうんざりしたから。この徒労感。
一回の会議を1時間としても、仕事してたら週に何回もある!1日1回あったとしても、5時間!そんなに時間があったらどれだけポケモンを捕まえることができるか。もちろんポケモンじゃなくて、例えば子どもとの触れ合いの時間とか、恋人と過ごす時間とか、テレビ見る時間でもいい。。。。なんにしろ5時間増える!
5時間あったら何する?すくなくとも議論の絡まった会議はしたくない。時間をかければ良い会議というわけではない。
あんだけ時間をかけて話をしたのに、何が決まったか後から振り返るとわからない。
何を話しているのかわからない。
犬のおまわりさんでも呼びたいぐらい論点が迷子。

そんな話はおいといて、勉強してきて分かったことが、会議には魔物がいるということ。
こういう人が会議にいると、その会議は要注意!ということである。
今回は、その紹介をします。

①シキリテーター
枠に当てはめる名人。なんでも枠組みにはめてくれる。
意見を都合の良い要約にまとめたり、発言にいちいち自分の解釈をつけて進行してくれるオプションがつく。
会議の満足度は高い。本人だけの。
議論がどうあるべきかというより、自分がどうしたいか、が大切
主役は会議の参加者ではなく、自分。
時間や進行、発言の意図やゴールを過度に押し付けてくる。

②出羽守(ではのかみ)
はは〜m(__)mと頭を下げたくなるぐらい色々な知識をもっている。「この方法はアメリカ”では”批判されている」「A理論”では”」と「〜では」「〜では」といろいろな博学披露が見られる。おかげで一体何が自分の意見なのかは、なるほどではの不透明さ。一見博識で正しいことを行っているように視えるところが難点。

③カタリスト
「最近の若いもんは、、私が同じ立場の頃は。。。」と自分の過去の経験を、物語を、おおいに語っていただける。涙とあくびなしではきけない。
経験を語り、それを推奨してくる傾向がある。
そのため、結局議論の答えは自分の中。答えはきっと奥のほう。こころのずっと奥のほう。
輝ける経歴や誇れる体験を重ねている人が少なくない。自分の経験したこと以外を受け入れにくい。

④おしゃべり大魔王
しゃべるの大好き。1つのキーワードがあればどんどん言葉と物語が論点を飛びこえて出てくる。なんという頭の回転の速さ。会議の時間を大幅に伸ばし、みんなで一緒にいる時間を増やしてくれる。そんな心遣いが得意。「そういえば昔はこんな事があった」「その時Aさんがこういった、、あれは良かった。」。。。。
会議後何がどう決まったのかを曖昧にし、再びメンバーが再開する時期を早めてくれる。

以上、会議に潜む魔物。

こう人がいつと会議がこんな感じになる。

・意見がでない。
・特定の人の話が長い。
・なんともいえない徒労感が残る。
・議論がかたよる。
・時間が長い。
・結局なにが決まったの?

みたいな感じになる。

何を隠そうそれが冒頭に書いたとおり自分自身が陥っていたパターン。
意見が出ないから、焦り、人を指名して意見を言わせる。
今ならわかる。会議の司会をしていて
「何か意見をお願いします」
ということの無謀さを。
そんなの、一般素人に
「何かおもろいことやってや」
と無茶ぶりをしているようなもの。
日頃からお笑いネタを仕込んでいない私たちは、「と言われましても、笑わすには何したらいいの?」となる。
そしてなにも言えない。
あたりまえじゃんか、そんなこと。
それなのに「考えがない」「積極性がない」とストレスをためていた。

ファシリを学び、会議の魔物に気がつけば、魔物への対処もできるようになった。
魔物に気づくだけで会議の質が、グッと変わる。

如何に対話ができるかということを模索している。


それにしても、こうやって勝手に決めている私は決めつけ魔神である。
  


Posted by 峰政 裕一郎 at 21:00Comments(0)おもったこと

2016年09月10日

「困っている」と言い出せない。貧困女子高生報道炎上をめぐる隠され貧困

NHKで放送された貧困女子高生が、PCを買う金がなくて困ってるとはいいつつ、「アニメグッズや高価なペンを持っている」ということで「ホンマに貧困なのかよ」と放送後に意見が噴出した。その衝動は彼女のSNSのアカウントが特定され過去の生活行動が掘り起しや、片山さつき参議院議員もtwitter上で便乗する騒動となっている。

バッシングの発端は「報道は捏造だ〜」という気持ちだったのかもしれないが、勝手に住所や本名、過去のSNS歴などを調べたりなど、メディアに顔を出した女子高生自身に対して不特定多数が行った動きは「捏造だ」「非貧困」だ云々言う前に「無礼」だ。
この流れから何が見えてくるのだろうか。ことの背景はなんだろうか。

そんな中、興味深い記事がありました。

「NHK『貧困女子高生』報道のへのバッシングは、問題の恐るべき本質を覆い隠した」
という見出しの記事。
https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/behind-nhk-hinkon?utm_term=.emKB0BvLW#.uqQ2421rd

ここで貧困は、あした生きていくための衣食住がないという「絶対的貧困」ではなく、「相対的貧困」に言及している。(「金ないといってるくせに沢山の物もってるじゃん。俺のほうが金ないし貧乏だ。甘えたことぬかすな」という問題ではない)。相対的貧困が如何に見えにくい現代であり、また社会全体に広がる自己責任論にも触れ、あたり前の生活を求めて当事者が声を上げるのが如何に難しいことなどに触れられている。

「いやいやいや、お金がないのは、お金を稼ぐ努力をしなかったからだろ?」「金無いなら余分なことに使うなよ」と言われそうだ。
確かに、同じ会社に努めていて、努力をして成果を出していない人と、怠けて時間だけを過ごす人の給料が同じだと納得できないだろう。だから成果を出している人には給料を沢山あげて、怠けている人には少なくということに共感する人は多いだろう。だからお金がないないのは努力しないあなたの自己責任。

しかし、努力不足で給料が安いという自己責任論と、若者の貧困自己責任論は別の話である。
そもそも、若者の貧困は自己責任ではない。責任とは、選択する機会があり、自分の行った行いに対して請け負うものである。生まれた家庭の経済状況によって差がでるもの、要するに若者にとって選択できずに決まっていることは自己責任ではない。

「貧困な家庭に生まれても努力をして成功をおさめた人がいる!だから努力によるところがある!」と言いたい人もいるかも知れない。例えば勉強について考えてみる。義務教育というものがあり、最低限の教育は受けることができる。その中で努力すれば成長できる。だから努力する人は良い進路選択できるし、怠る人はそれなりの将来になる意見があるだろう。

しかし、勉強といっても、義務教育だけでなく、私立の中学校に行ったり、良い幼稚園にいったり、塾に行ったり、キャンプに行ったり、ピアノ習ったり、海外研修に行ったり、PCやったり、楽器を買ったり、野球したり、遊んだり、・・・いろいろある。
特に、勉強(と一般的に思われているもの)以外のスポーツや遊び、アートなど、勉強以外だと思われるものこそ、枠組みにはめた学力では測れない人間の豊かさや、生き抜く力を身につける絶好の場である。

が、そういうものほど経済状況を反映させる。

若者の貧困をなくそう、、ということは勉強以外のこと(と一般に思われているもの)も視野に入れる必要がある。

また、経済状況によって子どもの学力差がでるという報告がある。
そのことからも貧困という現象が子どもの成長の機会を奪っていることが分かる。

今回の「貧困女子高生バッシング」の問題は、貧困の自己責任化をあおり、人間の成長を阻害する貧困をより言いにくい風潮にさせている。困っている当事者が「私困っています。HELP!!」と言えない。

そして、見えにくい貧困はより見えにくくなる。

漫画ワンピースでゴア王国の貴族の娘が貧困層に向けて「なぜ(貧困層の人は)もやされてしまうの?」という問いに対して、「貴族に生まれてこなかったのがいかないんじゃないか」と答えている。極端な話だが、日本はそういった社会になりつつある、、、、のかもしれない。

とおもいやした。  


Posted by 峰政 裕一郎 at 21:00Comments(0)おもったこと

2016年09月06日

感動ものポルノから読み取れるメディアのワナ

感動ポルノがもたらした問題提起の本質はなんなのか。
ネットや新聞に取り上げられている障害者を扱った感動ポルノの記事。気になって気になって思わず書きました。

感動ポルノとは、発案者のステラさんの言葉を使うと「ある特定のグループに属する人々を、ほかのグループの人々の利益のためにモノ扱いしている」つまり「障害者を非障害者の利益のために消費の対象としている」写真や動画をのこと。

ここで言う利益とは、人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すことです。だから感動ものポルノ。(けっしてエロい意味ではない)

その背景に『「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」と思わせ「あんな大変な人もいるんだ」』という考えがあるといわれています。

24時間テレビの裏でNHKの「バリバラ」という番組が「検証!『障害者×感動』の方程式」と題して障害者を感動の消耗品とすることに異を唱えたのが最近の話題の発端。
番組後、「よくいった」「障害者は消耗品ではない!」の反響は大きいみたいです。

途中まで共感しますが、いまいち腑の深いところに落ちない、消化不良のところがあります。

そういった一般的な感動ポルノのストーリーはだいたいこんな感じでしょうか。


難病で足が不自由になったが、前向きに努力して、がんばって、乗り越えて、夢だった〇〇山の頭頂をやりきりました!◯光さん涙!(`;ω;´)ブワッ・・・みたいなヤツ。

噛み砕くと、、、

①苦境な状況(障害)があり、
②信念や前向きな意志をもって
③一生懸命努力をし、
④何かを達成する。

あれ?まてよ。。。このストーリーの構造ってどこかで見たことがあるような。
あれです。

どんどん♪ どんどんどん♪〜♪ 風の中のスバル〜♪

そう「プロジェクトX」!!

「障害者」を「労働者」にしたらこの構図がすっぽり入る気がしてきました。
主人公達は苦境にあるミッションを達成するため挑戦する。様々な困難が彼ら、彼女らを襲う。それを必死に克服する過程が描かれ最後はプロジェクトを達成する!
副題は「挑戦者たち」。偶然の一致でしょうが、障害者を英語圏の一部では「チャレンジド」とかいったりします。(僕はそんな言い方斜め上から目線できらいですけど)

それに続くプロ●ェッショナルとか、●熱大陸とかもその範疇の番組でしょう。。。。
ちゃんと最後に人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出させるようなこと言ってくれます。

見たことある方は分かる通り、これらの番組はドキュメンタリーといいつつ、かなりフレームにハマったものになっています。

主人公は苦境な状況から挑戦し、努力をし、周りの反発や困難を乗り越え、達成する(した)!
おおおおぉ感動!(周りへの感謝と、賞賛のおまけ付きと言うオプションもある)

違うところは、前者(障害者)はこれから困難に立ち向かい乗り越えるまさに今を題材にしますが、後者はすでにマイナスの逆境を乗り越えて社会的な成功を収めていることが多いということでしょうか。(ちなみに成功していなければ当然取材すらされない。)

障害者という今の苦境からスタートして達成を狙うか、目的達成した人の苦境の過去から語るか・・・
スタートとゴールの差こそあれ、主人公が苦境から挑戦し、努力し、達成する姿から感動を狙う構図は、やっぱり感動ポルノと同じ。
番組の制作背景では、感動という目的に向かって、被写体の仕事や生活を取材し、不必要な部分を切り落とし、使えるところをストーリーとして再構成する。

この「目的の為に不必要な部分を切り落としてストーリー化する構造」が、感動ポルノの問題の本質ではないかと、私は思います。

それについて、あまり言及されていない事が腑に落ちていない正体でした。
この「目的の為に不必要な部分を切り落としてストーリー化する構造」の3つの効果はこんな感じです。

1都合わるいところは見れない、見せない
都合の悪いところはカットカットカット。人間の生活は多様なんですけど、「サボりたーい」「めんどくさーい」「エローい」ことは感動ストーリーに合わないから切ります。のんびりだらだら?そこはカットね。不謹慎なボヤキも。主旨から外れるもん。おかげさまで人間的くささがないスーパーな人を見ることができます。

2自己努力と自己責任
障害者が山を登りたいといった時に、訓練をして、汗を流して、達成するから良いのであって、おそらく障害者が金持ちでヘリコプターを使ってオラついて頂上へ移動した番組を作っても多くの人が不満をもつでしょう。番組(と視聴者)が求めているのは自己努力であります。楽をしてはいけません。楽は最低限に抑えて努力してください。偶然?たまたま?成り行きで?いいえそれは努力したことにしましょう。そうすれば感動します。障害がある自分の不遇を自己努力で乗り越えてください。これを言い換えれば障害の自己責任ですね。

3ストーリー主義がもたらす客体化
求められるのは感動。起承転結から外れるものはいりません。だって、物語になりませんから。達成の感動がへります。だからこちらの考えた物語に合わせてください。大丈夫です。私達の言うとおりにしていただければ感動のストーリができます。ヒーロー、ヒロインです。被写体は主体としての主人公ではなく、感動の客体です。

この効果がもたらすものは「自己努力して、目向きに目指しす人物像」と「自己責任」、「多様性が排除される不寛容な社会」ではないでしょうか。
感動を目的としたストーリーの構図は、あたかも人生の成功や生き方が一つしかないような見せ方で私達の価値観を塗りつぶしてくれます。

そこから離れる人間はいい顔をされません。変人とかニートとよばれたりするかもしれません。貧乏は自己責任。

「努力して、目的を達成して何が悪い?」。「成功した人をモデルにして悪いの?」

はい、全然悪くありません。

声を小にしてでも叫びたいのは「人間ってのは、そんな人ばかりじゃないし、そんな時ばかりじゃない。もっと色んな人生の楽しみ方したっていいじゃない」「暗に生き方を押し付けるなよ」「それ以外の生き方も大切だよ」ということです。

テレビ・メディアという作り手だけの思惑だけではないと思っています。番組を見る視聴者、受け手側もそれを求めている部分もあるでしょう。

特に障害者をメディアが扱うときに感動ポルノにせざるを得ない背景もあるのではと思ってしまいます。

障害者のマイナスな面をメディアに流そうものならやれ人権侵害だ、やれ差別だ偏見だと批判されるでしょう。また逆に充実した暮らしぶりを映せば別の視聴者から「俺達より贅沢だ」「甘えている」「税金を使いやがって」と言われるかもしれない。
そうなると、障害者を取り扱った番組は、「不幸だけど一生懸命努力して頑張っています」ぐらいしかないのかもしれません。(あ、あとサヴァン症候群みたいな天才的な能力を持った人や、それを使って犯人捕まえたりするやつですかね)

チャリティ番組は嫌いでも、プロフェッショナルは好きな人、多かったりしませんか。(そもそも24時間テレビだって視聴率は20%を超えているってことは結構な人が支持しているってことでしょう。)
視聴者も製作者も「主人公は苦境な状況から挑戦し、努力をし、周りの反発を乗り越え、達成する!おおおおぉ感動!」を欲している。そのためならあえて苦難をつくりますよ。100キロ走りますよ。

構図は一緒です。

構図が一緒ならば目的が「感動」から「笑い」に代わっても、主人公が「障害者」でも「労働者」でも「専門職」でも一緒だと思います。(番組を批判しているわえではありません。)

今回の感動ポルノがもたらした話題のメッセージは「障害者を感動の消耗品にするなよ」ではなく、(ややぶっとびますが)「多様性の排除している方法に気がつけよ。おい」ではないでしょうか。感動ポルノをもとめる価値観を持った人は沢山あるおり、それから外れるものは批判される。それに対する問題提起。

そして、もし今回の感動ポルノの話題を障害者だけに限っているのであれば、それこそ、本質が見えず、感動ポルノの餌食になっているんじゃないのか。そんなふうに思ったので、思わず書いてしまいました。

以上、私のSF物語でした。

もし私にテレビ出演のオファーが来たらもちろん出ます。  


Posted by 峰政 裕一郎 at 21:00Comments(0)おもったこと